2007年 03月 25日
『玄海遊侠伝・やぶれかぶれ』 |
『玄海遊侠伝・やぶれかぶれ』は高純度の映画である。
テレビドラマとの違いさえ見分けることが難しいほど貧困な『極道の妻たち』に半ば呆れながら、先日愉しんだかつての大衆娯楽作品の充実ぶりに改めて思いを馳せた。
北九州の大親分、吉田磯吉を勝新太郎が演じた仁侠映画であるこの作品には、あくまで映画にしか宿ることのできないふてぶてしさと繊細さが共存する。
若松の港町を幻想的に浮かび上がらせる照明が素晴らしい。
光の粒子が粗くフィルムに映える様は、まさに映画ならではの魔力。
剣で立ち向かう相手に、勝新太郎が拳銃を無茶苦茶にぶっ放して皆殺しにするという思い切りの良い演出にも驚かされる。フェアな斬り合いなど端から放棄していて、赤塚不二夫マンガの警官並みに脈絡無い発砲ぶりである。
病の中で戦いに参じた刺客を演じる松方弘樹の殺陣からも目を逸らせない。
足元すらおぼつかない病状のなかで、ひっそりと敵を葬る松方の太刀は、空を切る音も、身体を切り裂く音さえも発することがない。死に迫った男の妖剣から、一切の「音」を排除していて、あまりの不気味さに唸った。
脇役陣も目を引く。特に老いた番頭の肝の据わった立ち回りには、ジョン・フォードの西部劇を思わせたし、京マチ子や岸田森の存在もいちいち嬉しい。
しかしなにより、安田(大楠)道代である。
登場から抜群の存在感で妖しさをフィルムに振りまいていたが、圧巻は勝への報われぬ想いを告げるシーンである。道端で胸に手をやり溢れた愛のセリフは、「お乳が、お乳が痛か」。
何という強い愛の告白であろうか。ここまで痛切に男心を射抜く言葉が存在するだろうか。
長年映画を観続けているが、映画においてセリフにここまでの重みを感じることは少ない。
「普通の仁侠映画」に映画ファンを強烈に反応させるマキノ雅弘の図抜けた才覚に恐れをなした。安田道代が放った「愛の言葉」をかけてくれる相手を僕も気長に待つことにする。
テレビドラマとの違いさえ見分けることが難しいほど貧困な『極道の妻たち』に半ば呆れながら、先日愉しんだかつての大衆娯楽作品の充実ぶりに改めて思いを馳せた。
北九州の大親分、吉田磯吉を勝新太郎が演じた仁侠映画であるこの作品には、あくまで映画にしか宿ることのできないふてぶてしさと繊細さが共存する。
若松の港町を幻想的に浮かび上がらせる照明が素晴らしい。
光の粒子が粗くフィルムに映える様は、まさに映画ならではの魔力。
剣で立ち向かう相手に、勝新太郎が拳銃を無茶苦茶にぶっ放して皆殺しにするという思い切りの良い演出にも驚かされる。フェアな斬り合いなど端から放棄していて、赤塚不二夫マンガの警官並みに脈絡無い発砲ぶりである。
病の中で戦いに参じた刺客を演じる松方弘樹の殺陣からも目を逸らせない。
足元すらおぼつかない病状のなかで、ひっそりと敵を葬る松方の太刀は、空を切る音も、身体を切り裂く音さえも発することがない。死に迫った男の妖剣から、一切の「音」を排除していて、あまりの不気味さに唸った。
脇役陣も目を引く。特に老いた番頭の肝の据わった立ち回りには、ジョン・フォードの西部劇を思わせたし、京マチ子や岸田森の存在もいちいち嬉しい。
しかしなにより、安田(大楠)道代である。
登場から抜群の存在感で妖しさをフィルムに振りまいていたが、圧巻は勝への報われぬ想いを告げるシーンである。道端で胸に手をやり溢れた愛のセリフは、「お乳が、お乳が痛か」。
何という強い愛の告白であろうか。ここまで痛切に男心を射抜く言葉が存在するだろうか。
長年映画を観続けているが、映画においてセリフにここまでの重みを感じることは少ない。
「普通の仁侠映画」に映画ファンを強烈に反応させるマキノ雅弘の図抜けた才覚に恐れをなした。安田道代が放った「愛の言葉」をかけてくれる相手を僕も気長に待つことにする。
by cassavetes69
| 2007-03-25 07:43
| 映画
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