『太陽がいっぱい』 |
1930年を境とするサイレントからトーキーへの移行は最も判りやすい映画の歴史の分かれ目である。
1960年前後のフランスも、映画史においての鮮やかな断層を形作っている。
叙情性を誇ったかつてのフランス映画は、”ヌーベルバーグ”という美しき破壊者たちによって葬り去られようとしていた。ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』という作品は、その大波の只中である1960年に公開された。クレマンといえば、元々はアヴァンギャルドから出発し、リアリズム表現を得意とする作家だが、『禁じられた遊び』や『居酒屋』で知られるように、どう考えても”ヌーベルバーグ”とは相容れない、いわば”アンシャンレジーム”の側の人である。
だが、この『太陽がいっぱい』という作品は、古典的なストーリーテリングでありながら、”ヌーベルバーグ”という荒い波を完全に無視することは出来なかった作品であると僕は見ている。いわば断層の狭間の混沌の中で産み落とされた娯楽作品である。(ヌーベルバーグの影響は、アラン・ドロンが魚河岸を徘徊するシーンに最も顕著に現れている。)
僕は夏の終わりになるとこの映画を観たくなるのだが、今年も例外ではなかった。
GUCCIのビットモカシンを履き、シャツの第3ボタンまで開いたアラン・ドロンの卑しい輝きは尋常ではない。これはもう狂気である。
対して、洗練された育ちのよさを感じさせるモーリス・ロネの横暴さ。
眉さえも整えているのか疑わしいほど無防備な美しさのマリー・ラフォレ。
パスポートで身分照会を受けるアラン・ドロンの顔に、成りすましたはずのモーリス・ロネの顔が一瞬差し替えられるシーンがある。クレマンの後のフィルム・ノワールへの傾倒を予感させるような大人のお遊びショットである。
アンリ・ドカエの撮影も際立つ。この映画は降り注ぐ太陽から外れた、日陰の情景が実に見事なのだ。主人公トム・リプレーが無邪気な子供たちの縄跳びを見下ろすシーンの静かなトーン。僕はこの映画を観るたびに、このショットに感心してしまう。ラウール・クタールやネストール・アルメンドロスもそうだが、この時代のフランス映画界のキャメラマンの充実ぶりに骨まで蕩ける。
アンソニー・ミンゲラによる近作『リプリー』もパトリシア・ハイスミスの原作に忠実な作品であり、トム・リプレーの性癖についてもストレートに語っているのだが、ところどころに性癖を示唆しながらも包み隠した前作に、フィルムの持つ「毒性」で及んでいない。同じ殺人者でありながら、マット・デイモンの体から溢れ出る毒性は、せいぜい記憶を惑わすほどの力しかないのに、アラン・ドロンのそれは優に致死量を超える。
作曲者ニーノ・ロータは確か「やり過ぎた」と語っていたが、確かにこの有名すぎる音楽の存在感は強い。この調べが、タオルミナの裏街をなぞらえるように炙りだして、物語の卑しい甘さを後押しする。アラン・ドロンの「やり過ぎ」の甘さと、ピタリと寄り添うのだ。
スクリーンの左から右へ勝ち誇ったままの顔で横切るラスト・シーンのアラン・ドロン。
正しい。この映画に、失意のラストシーンなど不似合いだ。
過剰な暑さの夏だからこそ、「やり過ぎ」の映画に酔いつぶれてみるのもいいのではないか。
今年も、もうすぐに、夏は終わるのだから。
その昔、NHKの「夢で逢いましょう」という番組にアラン・ドロンがゲスト出演し、他の俳優・歌手の浮き足立った様子、今でも憶えています。
こちら(米国)で観直そうと、郡の全図書館を探しても、どこにもないのには驚きました。米国での人気の程が伺えますが、日本からDVDを取り寄せようと考えていたところでした。
アラン・ドロンの役者としての評価が高い人とは思わないのですが、数多くの名作への出演や名監督との仕事が多いですよね。
しかし米国の図書館でさえ観ることが出来ないというのはちょっとした驚きです。映画史において決して無視できる作品ではないと思うのですが。
アメリカでアラン・ドロンを知っている人が少ないのに驚いた一人です。
ただ先日現地の友人が、あちらでは15年前?でしたらTV俳優のトム・セレック、今でしたらアントニオ・バンデラスのような(演技力云々は別として)、いわゆるTall & Dark、肌の色が濃い目のセクシー系男優が今も昔ももてはやされると言っていたのを思い出し、アラン・ドロンはあまりに美しく整いすぎて女性の嫉妬を買ってしまうのかしらとも思いましたが。
『太陽がいっぱい』は繰り返し観ました。タイプライターを打つシーンが印象的です。今はすっかりパソコンに慣らされてしまいましたが、あの型が欲しいと今も切実に思っています。
タイプライターは印象的ですね。犯罪映画の小道具として有効でした。電話もベルもそうですが、スクリーンに馴染む小道具が少しずつ姿を消しているのが残念です。