『隣の女』 |
ほぼ10年ぶりに観たフランソワ・トリュフォーの『隣の女』は、夏の夜を更に短くした。
8年前まで深い関係にあった男と女が再び出逢う。
ジェラール・ドゥパリュデューとファニー・アルダン。
今度は隣家の住人同士として苦しい視線を交わす。
トリュフォーのまなざしが一際強く捉えるファニー・アルダンの足、ジェラール・ドゥパリュデューの指に注目したい。階段を降りる足、しかも後方から捉えたショットでファニー・アルダンを登場させるなど、トリュフォーの足への執着と、その美しさに胸が躍る。
男と女は、再び二人だけの「秘密」を持ち、街外れのホテルで溺れる。
頭にまとわりつくダイアローグたち。
「男はいつも恋愛に関しては素人だ」
まさにその通り。
「もう、これきりにしましょう」という単純な一言だけでどれだけ男が腰砕けになってしまうか。
女としては「ここしかない」というタイミングである。
痛みを知るトリュフォーの奥深い演出を噛みしめる。
恋愛というものが、どれほど不条理であるか。
恋愛に翻弄される男がどれほど滑稽で情けないものか。
いや、だから素晴らしいのだ。
これがトリュフォーの撮る恋愛なのだ。
この映画を、幸福な悲劇と言おうか、あるいは悲痛なハッピーエンドと言うべきなのか。
ヌーベルバーグ期と比較すれば、大衆への距離が極端に近くなったとはいえ、
トリュフォーの撮るメロドラマは、やはりトリュフォーなのだった。
時々覗かせて頂いてます。
この前、新文芸坐のオールナイトで久しぶりにスクリーンで観たのですが、やっぱり大好きです。それにしてもトリュフォーが撮るとファニー・アルダンでさえ超美人に見えてしまうから不思議ですよね?
だが、二人で生きていくには悲しすぎる。」
最後に入るのはこんなナレーションだったでしょうか?
この時代の映像の色はどこかトーンが沈みがちに見えて、
個人的にはとても好きです。
その方がより自然に感じるのかもしれません。
起きている出来事が「さりげない特別」に見えてしまう。
だからドキドキしてしまったりする。
このメロドラマを飽くことなく、胸焼けすることもなく、
最後まで食い入るように追ってしまったのはやはり10年ほど前のことでしょうか。
これがフランソワ・トリュフォーの魔法ですか?
映画に関しては、ほぼど素人です。
恥知らずなコメントをしていたら申し訳ありません。
時々来ていただいたようでありがとうございます。
ファニー・アルダン、ちょっとごついですが、私は実はキライじゃないんですよ。芸術臭を漂わせながら凡庸な演出しか出来ないフランス映画と比較すると、トリュフォーは通俗的な中に高い才能を示してくれますね。
今度はそちらにも伺わせていただきます。
ラストは仰るようなナレーションが入りますね。
他にもいくつか突き刺さるセリフがあります。
トリュフォーは幸か不幸か魔法を自由に操れる人ではなかったというのが私の見方ですが、彼が起こす奇跡は何度か目の当たりにしました。
愛すべき作家です。
是非、交換しましょう。