『ライフレッスン』 |
スコセッシ、コッポラ、ウッディ・アレンという3人がメガホンを取って競った’89年の『ニューヨーク・ストーリーズ』というオムニバス映画。
第一話:『ライフレッスン』 マーティンスコセッシ
第ニ話:『ゾイのいない人生』 フランシス・フォード・コッポラ
第三話:『エディプス・コンプレックス』 ウッディ・アレン
結果は、スターターを努めた『ライフレッスン』の圧勝だった。
中年の絵描きが、一人の女に熱を上げて、それが終焉を迎えるまでの短いお話。
物語を覆い尽くすように執拗に流れるProcol Harumの『青い影』(A Whiter Shade of Pale)が圧巻である。
この短いフィルムを、この曲なしで回想できる人は、まずいないだろう。
「ただ一曲のポピュラーソングで映画を作ることができるか?」というスコセッシの実験的な試みだと僕は受け取った。『青い影』がこの映画に与えた影響は、編集という撮影後の作業によってもたらされたものではない。この曲がまず最初にあってはじめて、カメラワークも、アングルも、カットの長短も決まってきているのだ。
すべては『青い影』が握っている。
映画とお洒落に少しだけ興味がある日本の女の子たちが、こぞって絶賛した『恋する惑星』。
そのなかにおける『夢のカリフォルニア』(California Dreaming)との明らかな違いはこの点にある。フィルムと絡む緊密さが違うのだ。
スコセッシとウォン・カーワイという二人の映画人の、音楽に対する深みの格差が表れているともいえる。
またこの映画は、スコセッシが、女の「足」や「指」や「唇」を撮れるエロティックな目線を持ち合わせた作家であることを示して我々を喜ばせた。
(エロスを表現するには充分な題材であった後年の『エイジ・オブ・イノセンス』に僕が
期待したのは、精緻で流麗な指の運びではなく、この映画に見られる「生」の動きだったのだ。王道のテクニックを尽くした『エイジ・オブ・イノセンス』にはその「生」の感覚が欠けていた。)
画家を演じるニック・ノルティのだらしなさ加減が身につまされる。個人的に『ノースダラス40』から注目していたが、正直、ここまで味のある役者だとは思わなかった。芸術家、というプライドだけで尊大に振舞う、横柄な小心者。それでいて魅力的な中年男の色気を放っている。
まるで『アフター・アワーズ』から飛び出したような相手役のロザンナ・アークウェットとニック・ノルティとの相性も際立っている。頭のネジが緩んで腰の浮いた女を演らせたら、並みの女優では彼女に歯が立たない。
だてにTOTOのSteve Porcaroに『ROSANNA』を献上させてはいない。
この顔、身体、表情は、限りなくフィルムに融和しやすい「いかがわしさ」を保有している。
『青い影』。それと共に紡がれる前衛の絵画。そして二人の触れ合う身体。それらが織り成す心地よい、短い失恋物語。
気持ち悪い表現だが、この映画のラストシーンは男心を「キュン」とさせる。
ニック・ノルティの、「これぞ男」という馬鹿さ加減が熱い共感を呼ぶのだ。
「こういう男に、私はなりたい。」
ほっとけないっていうか。
火野正平タイプ?ちょっと違うかな(笑)
ロザンナさん、大好きです。
「クラッシュ」の彼女はヤバかったですね。
映画自体はその、あんまし、ですが。
ロザンナ・アークウェットは『デブラ・ウィンガーを探して』でいい仕事もしていますが、やはり「女優」としてまだまだ輝ける人だと思います。
こういう、「女を振り回す男」憧れますね。
私は振り回されっぱなしなので。
なるほど是非観ないとですね!!
アフター・アワーズ以来、スコセッシに入れ込んでしまいまして高い金だしてブルースプロジェクトのBOX買おうか?と先月から財布と相談しています。
スコセッシはご存知のように『ラストワルツ』も監督していますし、『グッド・フェローズ』でのロック史のなぞり方も的確でしたね。ジム・モリソンと同窓ですから、近代のポップス史にもどっぷりと漬かってるんですね。