『引き裂かれた女』 |
クロード・シャブロルの’07年の映画『引き裂かれた女』はその真理に導いてくれる傑作である。
導入部。プールサイドで、初老の男とふたりの中年の女がデッキチェアに寝そべるシーンがある。ここになんともしれぬ艶がある。磨き続けてきた女だけに許される奔放なしぐさ。色気を保ってきた男だけに許される緩さ。このシーンだけで『引き裂かれた女』というフィルムが特権的な振る舞いを許されていることを証明している。
いや、失礼。許されているなんて、シャブロルに対してそんな不遜な言葉を吐いてはならなかった。クロード・シャブロルは、つねに特別な賓客として扱うべき存在なのだ。彼は晩年、サスペンスの神様ヒッチコックにさえ限りなく接近しているのだから。
フランソワ・ベルレアン演じる人気作家の脇の甘さ、巧さ、冷たさ、狡さ。
妻に愛され、そのほかの女たちにも好意を抱かれていても、リュディヴィーヌ・サニエ演じる若いお天気キャスター、ガブリエルに興味が募っていく。この男は、女たちをだましているわけでも、嘘をついているわけでもない。その時々に自分の思いに忠実な感情を語っているだけなのだ。
近年のシャブロル作品では常連となったが、この作品でもブノワ・マジメルが登場し、過剰な自意識に捕われた二世の青年実業家を好演している。老いた文学者の色気と対比させるように若いブルジョアに滑稽ともいえる振る舞いを重ねさせるのは、老いたシャブロル自身の若さへの嫉妬なのか。リュディヴィーヌ・サニエの想いは、いかなる辱めも裏切りを受けようとも揺らぐことがなく、淫らな初老の男に向けられていく。感情に忠実な”ガブリエルのメッセージ”は、若き後継者に対しては虚ろな動揺のなかで放たれただけだった。
『日曜日が待ち遠しい』にも出演していたカロリーヌ・シオルの、ベティ・デイビスを思わせる鬼母ぶりも見逃せない。馬鹿息子であるブノワ・マジメルを溺愛する彼女の不気味な白さ。全編に白く、静かに、消えることのない怒りの炎をくすぶらせている。この鬼母は、完全なる敗北にも打ち拉がれはしない。瞬きさえも厭うように、愛する息子と、憎むべき嫁に冷たくたぎる視線を注ぐ。
シャブロルの作品はブルジョア階級へのシンパシーと同族嫌悪が色濃く反映されている。観客は「お前たちのような庶民にはサスペンスに登場する権利すらもない」と突き放されるのだが、それがまったく不快ではなく、むしろ心地よいのである。それを許すのが、彼の揺るぎない美意識である。
このフィルムを観てしまったら、しばらく頭からこの物語がまとわりついて離れることはないだろう。
あなたがいまも生身の、男であるか、あるいは女であるならば。
自分の欲に恥かしさも罪悪感もなく振る舞う作家は(私からすれば)自業自得と思うけど、あとから考えたらガブリエルもただの被害者ではないのかも…。キャスターという職業を考えると、注目されたいという潜在的な強い願望があったからこそ、有名な作家や実業家との関係を自ら求める結果になったのではないかと。(最後の)舞台でマジックのアシスタントを求められるまま務めたあとの観客に向けた笑顔が、そう感じさせたのです。注目を浴びて満足している部分があったのではないか、と思うのです。どうかな?そう考えると女性もやっぱりしたたかでおそろしいな(笑)
今回シャブロル監督のほかの作品のDVDも借りれたので、観るのが楽しみではありますが、観てしまうのがもったいない気もしています。
またブノア・マジメルも、傷ついたらとことん傷つかないと気が済まないという、特権階級の妙なプライドというか美意識から破滅的な結末をあえて形成しようとする。そういう冷徹なシャブロルの視線に私はため息をつくほど信服してしまうのです。
仰るようにシャブロルの作品は観てしまうのがもったいない。その気持ちは私もよく陥ります。でも、彼の映画を観ずにいることはその何倍ももったいないと思います。
手に取れる環境が整ってきたとは言え、私はもっと日本でもシャブロルの支持者が増えるべきだと思っています。