『桐島、部活やめるってよ』 |
ひとり朝食を食べてそのまま徒歩で駅へ向かい、地下鉄に乗った。『桐島、部活やめるってよ』という日本映画がちょっと気になっていたからだ。
僕はかねてから、学校こそが社会だと思っている。卒業=社会に出ることで、そこからが大変だなんてしたり顔でいう大人がいるが、あれは大嘘だ。例外はもちろんあるが、職に就くとムラに囲われ、むしろ社会から隔離されることが多いのだ。特に大手企業の会社勤めや役所なんて何度も濾過された上澄みの人間だけが残っている安全地帯だ。サバイバルする感覚が養われるのは、むしろ学校生活なのだ。
『桐島、部活やめるってよ』は、黒澤明の『羅生門』のようなアプローチで幕を開ける。舞台は公立高校。桐島という名の校内のカリスマ的存在の同級生が、金曜日に部活をやめるという噂が校内を飛び交う。受け止める立場は様々だ。職員室で、部活で、立ち聞きで、情報は拡散していく。
学校という組織は、多種多様な若い種族が同じ空間に生息し、それぞれ自分の「身分」を強く意識している空間だ。剥き出しの自意識は残酷なまでに人を傷つけ、少しでも有利な生息地を確保しようとする。目立ったグループにいて、外見や才能にも恵まれ、一見充実しているように見える生徒ほどその傾向が強い。そのあたりの微妙な感情の描き方にこの映画の作り手がこだわっているのがわかる。
主役の神木隆之介をはじめとして、若い役者たちが演じすぎていてフィルムに手垢がついたようになっているのが残念だが、脚本がよく練られていて、この暑い夏の最中でも、充分劇場に足を運ぶ価値のある作品になっている。映画的空間の作り方についての特別な才能を感じることはなかったが、風や音のつかい方に真面目さを感じた。
『桐島、部活やめるってよ』は観ておいた方がいい。あなたは、誰に感情移入してこの映画に接することになるのだろうか。早朝8時半。少年少女の合間をぬって、ビールを片手に劇場の席についた無精ひげの僕でさえ、今日は17才になっていた。
学校生活は、充実していてもしていなくても、
その人の血となり肉となって今につながっていると感じます。
あまりにも鮮明な記憶の断片だらけです。
娘の小学校生活を見ると、私は時折追体験をするような心持ちになる事があります。
時代が変わっても何か絶対的に変わらない雰囲気が学校にはありますね。
学校生活についての考え方は、以前、そちらのコメント欄でも共感できた気でいたので、今回の記事にコメントいただいたのは率直にうれしいです。
今回のポストは、自分の体験や考えが大きく反映されていて作品としての映画に接する私の姿勢とはちょっと違います。
ご覧になっていないのを承知で敢えて言いますが、私自身の高校時代は、この映画のなかの桐島”周辺”の人間だったような気がします。一方では、神木が演じる映画マニアでもあったわけで、どちらにも感情移入できるという感覚でした。そのあたりが今回のようなポストとなった理由かもしれませんね。