『旅立ちの時』 |
僕も土曜日には、父の日イベントで恒例の芋苗を植えに幼稚園に出かけた。双子は感謝の手紙をくれた。こういうありきたりなイベントを迎えられる境遇を、単純に有難いと思う。
今日はそういう父子関係とは縁遠い家族の関係を描いた映画、『旅立ちの時』を思い出している。この4月に亡くなった職人監督シドニー・ルメットの'88年の作品である。
過去の反戦運動でテロリスト認定され、連邦警察に指名手配された両親。そのもとで、各地を転々とする思春期の少年を演じるのが夭逝したリバー・フェニックスだ。相手役の少女はマーサ・プリンプトン。
この映画を公開当時に観て、とにかく泣いた。これほど泣いた映画は後にも先にも記憶にない。そして僕はこのフィルムを客観的に論評する資格を欠いていると思う。この映画の作品としての純粋な力だけでなく、当時の僕自身の個人的な想いが投影されすぎているからである。もっと言ってしまえば、誰にも言えずに抱えていた痛みに対し、この作品は寡黙に、しかし直接的に語ってきたのだ。
19歳だった僕は、誰よりも、この映画に共感していると自認した。それは事実であったと思う。そして20年を経た2年前に再び観た。秀作には違いないが、以前ほど涙を流すことも、感情を揺さぶられることもなかった。
僕の痛みは完全に和らいだ。その事実を喜んでいいのか悲しむべきなのか、僕にはわからない。