『トウキョウソナタ』 |
'08年に黒沢清の『トウキョウソナタ』は公開された。この二作を並べることが”はしたない”振る舞いであることは承知しながらも、その誘惑に抗えない。
このフィルムが本当に黒沢清の映画なのだろうか。彼がこんなに、通俗的な家族の作品を撮ってもいいのだろうか。そういう我々外野の声を予想しながらも、その状況を楽しむかのように、黒沢は淡々と「東京」という映像曲を奏でる。
センセーショナルであり、かつ質の高い映画でありながら、どうしても許せなかった是枝裕和の『誰も知らない』に対する個人的な復讐として、僕はこの作品を支持したい。
「開け放たれた窓」の残像が尾を引く作品である。オープニングからクライマックス、そしてラストシーンまで「窓」の役割が大きい。
笑えるほどステレオタイプに描かれた物語と登場人物たち。
会社をリストラされたことを家族に言えずに公園で時間をつぶす父。ティッシュ配りのバイトをサボりながら、傭兵に応募していた長男。まったく音楽の経験がないのに、天才的なピアノのセンスを見せる次男。そして小泉今日子が演じる母は、それらの秘密の出来事を少しずつ知りつつも逆らわず、受け止め、流される。そして誰かに引き上げられることを求めて彷徨う。
こんな判りやすい家族の肖像が、いくらかの意外性を伴いはするものの、あくまで既存のドラマツルギーの範囲内で物語として展開され、そして幸福に帰結していくのだ。
ラストシーンで、ドビュッシーの『月の光』が奏でられる。
ピアノ演奏会としては不自然だが、ここでも「開け放たれた窓」から入ってくる風に応えるように、カーテンが揺れる。この穏やかな「揺れ」が、映画を見届けた観客に与えられる最高の贈り物である。
このカーテンの動きに心を揺り動かされない人は、何のためにこのフィルムに向き合っていたのだろう。そうつぶやかせる程の、天女のようにたおやかな揺れなのだ。
愚直なほど叙情的で、一見緩んだかのような結末でも我々を驚かせる黒沢清は、やはり映画を深く知っている。天上の小津は、半世紀後に放たれた東京物語になんとつぶやいたのだろうか。
カサヴェテスには、'85年の『ゴダールの探偵』でもウルマーやイーストウッドとともに献辞を捧げていますね。ウルマーを除いたこの3人は、カサヴェテスが'29年。残りの2人が'30年生まれでり、この世代が映画史における重要な役割を担っているという指摘は幾つか取りあげられていたと記憶しています。
『映画史』のような作品はよほどのことがなければ語ってはならぬと思っていますし、私はその資格を著しく欠いていると自認しています。
『映画史』のような作品はよほどのことがなければ語ってはならぬと思っています>
私はこの作品について、モンタージュが素晴らしくブレッソンのシネマトグラフの覚書、からの引用文が十分に理解できただけでも良かったと無邪気に考えています。勿論、『映画史』の射程は恐ろしく遠く深いものだとは承知しています。
尚、トウキョウソナタ、の欄にコメントを投稿した当初の目的は、この映画もまた海を描ききれていない、と述べたかったからです。海が登場するとボンヤリしてしまうのです。
最近、私は映画において十分に表現できないものがあると、考えていまし。登場人物の夢、爆発炎上シーンのスペクタクル性、そして海浜の光景です。ラブ・ストリームスと北北西に進路を取れ、山椒大夫だけが例外的奇跡と考えています。
私など、口をつぐんで当然というわけです。
『トウキョウソナタ』が、海を描ききれていない、というご指摘ですが、そうなのかもしれません。私には、この映画が海を撮る宿命を帯びているとも思えなかったので、そういう感覚は湧き出ませんでした。
>ラブ・ストリームスと北北西に進路を取れ、山椒大夫だけが例外的奇跡と考えています。
三本とも私が心酔する映画です。
しかしながら私は、この三本だけ、と言い切れるほど映画というものを知らないのです。
この引用でクラクラっときました。故淀川長治さんの言葉ですが、”映画に酔っ払って酔っ払って”観た次第です。
『トウキョウソナタ』における海浜の光景は、確かに重要ではないでしょうが、黒沢清監督が海をどう映像に定着させるか興味があったのです。そして、やはり海を映像として捉えるのは難しい、という私の近年の持論を裏切ってくれなかったなあ、という感想です。
河や川、沼や湖は時には官能的にも描かれるのに対して、海は映像対象化が難しいと考えています。
映画の限界として、登場人物の夢、爆発炎上シーン、海の反復する波の映像化を語るなど、パラノイア的と思われ、ご迷惑かもしれませんので、投稿はこれで最後と致します。
いろいろ教えて頂き感謝いたします。
追記:映画の可能・不可能の限界線には触覚可能性が関連していると考えます。
ジャック・ラカンやスラボイ・ジジェクを語れるほど読んでいないこともありますが、私が感動するのも、あくまで”映画”という作品そのものが生む興奮であり、”映画の歴史”のなかにおいての連鎖なり、引用なり、そういうものに動物的に反射し、落涙するわけです。
だから、ベルイマンやタルコフスキーの作品群には、数作の例外を除き、私は酔っ払うことができないし、そういったアプローチの発言を慎むようにしています。単に無知だから、とも言えますが。
仰せのように、例えば、ジャ・ジャンクーの『長江哀歌』のように、河や川は官能的、映画的ですが、海はそうならないというご指摘には頷けます。一つ挙げるならば、私はトリュフォーの『恋のエチュード』の海は好きですね。
私はある分野で5年ほど、実験、論文作成に没頭した時期があり、幸運にもトップジャーナルに掲載され、尊敬するグループに引用され狂喜したこと、また、イタリアからレビューの依頼があり、400近い論文から100本引用してレビューを完成させた経験があります。
『映画史』は、私にとっては、一本のゴダール映画であり酔っ払って観る事も可能ですし、レビュー論文として捉えれば、自分の最も興味を持つ言葉が引用されると、あたかも自分の仕事が引用されたかのように錯覚し、職業病のように狂喜し酩酊したわけです。
さて、教えて頂きたかったことは、ゴダールのカサヴェテスへの言及なり論評です。
また、『恋のエチュード』の海が素晴らしいのは、水平線があまり登場しないからでしょうか。水平線と視覚の関係・・・。海の映像対象化困難性の一つの要因かもしれません。興味深いヒントに感謝します。