2010年 02月 14日
『抱擁のかけら』 |
バレンタインデーなので、愛の誓いを描いた映画について。
ペドロ・アルモドバルの公開中の作品、『抱擁のかけら』を。
金曜日の夜遅く、シネコンに集うカップルの群れに囲まれながら、アルモドバル映画の入場券を一枚だけ買う四十郎という自らの状況に、僅かな気後れを感じながら席に着いた。
彼の映画の常である、痛ましい過去を抱えた主人公たちがここでも登場する。
冒頭から女を口説く、ルイス・オマール演じる盲目の脚本家がそうであり、時代を遡って登場する美し過ぎる女レナを演じるペネロペ・クルスがそうである。その周りを囲んだ男たちや女たちもまたそうである。
なぜこの男はマテオとハリーという二つの名前を持っているのか。かつて映画監督だった男が、失明して脚本を書くに至った過程に何があったのか。新聞の死亡記事の男は彼とどんな関係があったのか。彼の周囲にいる人々は何をしているのか、していたのか。そしてそこにペネロペ・クルスはどう関係してくるのか。アルモドバル・アプローチとも言える手法で観客に原色のまばゆい映像で語っていく。
まずいえるのは、「編集」を描いた映画であるということ。劇中劇(メタ映画)として撮影される『謎の鞄と女たち』でも編集の作業が物語を決定付ける非常に重要な位置を占めているし、2008年と1992~1994年の間をゆっくりと往復しながら、コラージュのように少しずつ事実を糊付けして編集しながら、この愛の物語を完成させていく。
背中と、階段にこだわったショットが幾度となく放たれる。体のラインを強調したレナの後ろ姿。海辺を望みながら抱擁する男女の背中。そして隠されたもうひとつのキャメラで撮られた最期のキスもまた背中のショットと言えるだろう。
実生活と、劇中劇で重ねてレナが転落する階段。失明した男が初めて杖をついて足を踏み出す階段。真実を聴かされた男が侘しい表情で下りていく階段。ヒッチコックの『めまい』への思いを感じなくもない。
この作品でも過去の自作でのモチーフを少しずつ詰め込んでいる。劇中劇はあきらかに出世作『神経衰弱ぎりぎりの女たち』の引用だし、ロッシ・デ・パルマも久々に顔を出して古くからのファンを喜ばせている。前作でのフィルムの引用はルキノ・ヴィスコンティの『ベリッシマ』だったが、今回はロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』をテレビ画面に登場させてもいる。ジュールズ・ダッシンやニコラス・レイなど作家性の高い監督たちの名前を並べ、映画史からの引用にもより積極的になってきているようだ。
もはや巨匠とも言えるような「型」のある作風が身についてきたアルモドバル。彼が育て、見つめ続けてきたペネロペ・クルスという女優もいよいよ熟してきた。二重に組み立てられた物語の展開も、入念な演出も綻びがない。誰が観てもアルモドバルの作品だという作家性も保ったままである。娯楽性と芸術性の程よく溶け合った観ておく価値のあるフィルムだ。
しかし、僕がこの作品を少し醒めた目で観てしまったのは、事実である。
四十郎の僕の気後れとは、関係がなかったことも確かである。
ペドロ・アルモドバルの公開中の作品、『抱擁のかけら』を。
金曜日の夜遅く、シネコンに集うカップルの群れに囲まれながら、アルモドバル映画の入場券を一枚だけ買う四十郎という自らの状況に、僅かな気後れを感じながら席に着いた。
彼の映画の常である、痛ましい過去を抱えた主人公たちがここでも登場する。
冒頭から女を口説く、ルイス・オマール演じる盲目の脚本家がそうであり、時代を遡って登場する美し過ぎる女レナを演じるペネロペ・クルスがそうである。その周りを囲んだ男たちや女たちもまたそうである。
なぜこの男はマテオとハリーという二つの名前を持っているのか。かつて映画監督だった男が、失明して脚本を書くに至った過程に何があったのか。新聞の死亡記事の男は彼とどんな関係があったのか。彼の周囲にいる人々は何をしているのか、していたのか。そしてそこにペネロペ・クルスはどう関係してくるのか。アルモドバル・アプローチとも言える手法で観客に原色のまばゆい映像で語っていく。
まずいえるのは、「編集」を描いた映画であるということ。劇中劇(メタ映画)として撮影される『謎の鞄と女たち』でも編集の作業が物語を決定付ける非常に重要な位置を占めているし、2008年と1992~1994年の間をゆっくりと往復しながら、コラージュのように少しずつ事実を糊付けして編集しながら、この愛の物語を完成させていく。
背中と、階段にこだわったショットが幾度となく放たれる。体のラインを強調したレナの後ろ姿。海辺を望みながら抱擁する男女の背中。そして隠されたもうひとつのキャメラで撮られた最期のキスもまた背中のショットと言えるだろう。
実生活と、劇中劇で重ねてレナが転落する階段。失明した男が初めて杖をついて足を踏み出す階段。真実を聴かされた男が侘しい表情で下りていく階段。ヒッチコックの『めまい』への思いを感じなくもない。
この作品でも過去の自作でのモチーフを少しずつ詰め込んでいる。劇中劇はあきらかに出世作『神経衰弱ぎりぎりの女たち』の引用だし、ロッシ・デ・パルマも久々に顔を出して古くからのファンを喜ばせている。前作でのフィルムの引用はルキノ・ヴィスコンティの『ベリッシマ』だったが、今回はロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』をテレビ画面に登場させてもいる。ジュールズ・ダッシンやニコラス・レイなど作家性の高い監督たちの名前を並べ、映画史からの引用にもより積極的になってきているようだ。
もはや巨匠とも言えるような「型」のある作風が身についてきたアルモドバル。彼が育て、見つめ続けてきたペネロペ・クルスという女優もいよいよ熟してきた。二重に組み立てられた物語の展開も、入念な演出も綻びがない。誰が観てもアルモドバルの作品だという作家性も保ったままである。娯楽性と芸術性の程よく溶け合った観ておく価値のあるフィルムだ。
しかし、僕がこの作品を少し醒めた目で観てしまったのは、事実である。
四十郎の僕の気後れとは、関係がなかったことも確かである。
by cassavetes69
| 2010-02-14 12:26
| 映画
|
Comments(2)
Commented
by
f-snowgirl at 2010-02-28 19:30
はじめまして。ペドロ・アルモドバルの映画の色彩がとても好きです。
この映画はまだみていませんが、見るのが楽しみです。
ブログはじめて間もなくて、色んなことがよくわからないのですが、あまりすてきなブログなので、先ほど勝手にリンクしてしまいました。
大丈夫でしょうか?もし、問題がありましたら、どうぞ申し付けてください。
この映画はまだみていませんが、見るのが楽しみです。
ブログはじめて間もなくて、色んなことがよくわからないのですが、あまりすてきなブログなので、先ほど勝手にリンクしてしまいました。
大丈夫でしょうか?もし、問題がありましたら、どうぞ申し付けてください。
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Commented
by
cassavetes69 at 2010-02-28 23:22
f-snowgirlさん、はじめまして。コメントありがとうございます。リンクも大歓迎です。特にExcite Bloggerの方は久々な気がします。こちらも同じくリンクさせてもらいます。
『抱擁のかけら』は観ておくべき作品だと思います。
ペネロペ・クルスは、この映画でハリウッドの象徴的な女優をなぞっていきますが、上の画像などはまんまオードリーですね。
『抱擁のかけら』は観ておくべき作品だと思います。
ペネロペ・クルスは、この映画でハリウッドの象徴的な女優をなぞっていきますが、上の画像などはまんまオードリーですね。