『華氏451』 |
わたしが出ていたら、あるいはジャン=ポール・ベルモンドが出ていたら、
『華氏451』はもっといい映画になっていただろうと思うな。残念だよ。
トリュフォー自身も「自己宣伝しか考えない、鼻もちならない狡猾な男」と主演のオスカー・ウェルナーを辛辣に罵っている。トリュフォーの苦手な英語で、イギリス映画として撮影されたこのフィルムに対して、納得のいかなかった様子がインタビューの言葉から読み取れる。
しかし僕は、SF嫌いのトリュフォーが、レイ・ブラッドベリの原作を元に撮りあげたSF映画を、彼の代表作のひとつとして数えたいくらいに好きである。
ディストピアである近未来では、本を読むこと、所持することが許されていない。秦の始皇帝や、ナチス・ドイツの焚書よりもさらに極端で、一切の書物が許されていない。主人公の消防士は「本を燃やすため」に存在しているというブラックジョークな設定である。タイトルの『華氏451』とは、本が自然発火する温度である。
家でテレビにかじりつく若妻を演じるのはジュリー・クリスティ。そして、モノレールで出逢った、密かに本を愛する理知的な女性もまたジュリー・クリスティだ。こちらはトリュフォーの要求に忠実に二役を演じ、監督からの寵愛を勝ち取っている。近年になって一層活動の旺盛な、キャリアの長い女優である。
シーンの一コマを観てもらえば判るように、「赤」がとても鮮やかで美しい。その「赤」が映画を象徴する「炎」を一層引き立てている。感動的なのは、主人公が初めて本を読むシーンである。ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』をたどたどしく、指でなぞりながら本の魅力に取り憑かれていく場面は、まるで幼子をみているようだ。
ラストシーンにはどうしても触れねばならない。ディストピアの世の中で、ただひとつのユートピアとして描かれた「本の森」は幻想的な美しさだ。この森の住人たちは、自分自身が本そのものになって、ひたすら暗唱を繰り返しながら、霧のように漂い歩く。
衝突を繰り返したオスカー・ウェルナーとトリュフォー。その後、ふたりは和解する場面があったときく。1984年10月21日、トリュフォーが亡くなった2日後に、オスカー・ウェルナーも心臓発作で後を追っている。