『アワーミュージック』 |
嫉妬や羨望などと言う感情から遠く離れて、この映画そのものの絶対的な存在を受け止めるしかない。いや、我々に受け止める権利すらあるのだろうか。
仰ぎ見るようにして撮影された、揺れ動く柳の木。背景の暗く寂しい青。そこにとまる黒い鴉をみているだけで、映画の絶対神の存在を感じる。
かつての作品群よりもやや寡黙に、ダイアローグは静かに踊る。
オイラーの公式のように、自分で解く可能性のない美しい数学の定理に接しているように浮遊する言葉。
路面電車は絶え間なく往き交い、画面は全編を通して緑の色が支配し、その中で赤の色だけが特権的に存在を許されている。ここまでの優しさに満ちた映像が、ゴダールの作品で観る機会が今世紀に入ってなお訪れようとは。
前触れという言葉がこの世に存在しないかのように始まる、片時の、片腕だけが絡み合う沈黙のダンス。一滴の血も通わないような表情の二人の舞踏に、我々の五感は混乱し、混沌の渦へ絡みとられる。
なぜ、ゴダールは、このような、美しく、やさしく、泣かせる、映画を、撮って、しまったのだろうか。
21世紀の初めに生まれた『アワー・ミュージック』は、おそらく21世紀が終わる瞬間も、この世紀を代表する作品として人々に記憶されているだろう。現代に生きる我々が、グリフィスやバスター・キートン、衣笠貞之助に追いすがるように。
僕は想う。いや、願う。
没して20年を迎えたかつての盟友フランソワ・トリュフォーの『華氏451』への想いがいくばくか含まれていないだろうか。画面の隅に燃えさかる炎を背に、レイ・ブラッドベリの焚書を想起させる、うずだかく積まれた本の山。また天上的な美しさの「王国3:天国」篇で描かれた、アダムとイヴのように林檎を齧る男と女。トリュフォーの作品でも、本の森で同じ所作が行われたはずだ。
このフィルムで最後に響く音は、潮騒の音である。これが、我々に与えられた最も原初的な『アワーミュージック』なのか。