『冬物語』 |
避暑地で運命的な出逢いをした男と”はなればなれ”になり、その男の面影を探し続けると言う女の境遇は『ひまわり』と同じ、そして続く展開もほぼ共通する物語である。
僕にとっては、イタリア映画界の巨匠ヴィットリオ・デ・シーカよりも、今年1月11日に亡くなったエリック・ロメールの方が遥かに重い存在である。「映画の快楽」というものを教えてくれた片思いの恩師なのだ。
この人の撮るフィルムの独特のテンポとダイアローグの洪水。ヌーベルバーグ以降を代表する傑作、『緑の光線』で彼のフィルムにはじめて出逢い目が眩んでからというもの、ずっとこの快楽から抜け出せずにいる。それは『春のソナタ』からはじまった「四季の物語」シリーズでも変わることは無い。
物語は、バカンスでの幸福なショットの連続に始まる。恋愛の始まりという人生で一番浮つき昂ぶる瞬間。旅先で知り合った端正な男に抱きつき、抱かれる、夢のような甘い時間。
やがて短いバカンスは終わる。二人は駅で再会を約束したまま、物語は5年後の冬へ飛ぶ。
再会を約束したはずの男からの便りは届かなかった。女の勘違いがあったのだ。
男との甘い生活で宿した命は、あどけなく、愛くるしく育っている。運命の男を忘れたことは片時もない。あの夏から女は、男たちの間を漂い続けてきた。そしてこの冬「肉体も精神も心から愛せない、いい人」であるインテリの恋人と別れ、「今よりも愛したい、少しだけ」と考えるかつての不倫相手と一緒に暮らすことを選ぶ。
そこからの1週間。新年へ向けて女と娘の生活は、流されるままに、思いのままに、静かに、そして劇的に変化を遂げていく。
この女ほど、男にとって困った存在はない。女の言動はまったく支離滅裂だし合理性も欠いているのだが、だからこそ愛してしまうのだ。女の恋愛感情とはまったく理解できない生ものであり、だからこそ恋愛はいつの世にも成立し、崩れるのだ。ロメールの描く女は、この作品でもいかがわしい若さに満ち、残酷で、エロティックだ。ロメール映画の封切りの館内は殆どが女性で、いつもバツが悪いのだが、つくづくこの国の男どもは怠惰だと思う。若い男たちこそ、彼の映画は観ておくべきなのだ。
この物語は、たとえ叶わなくても男との再会を信じて生きたほうが幸せ、という主人公の生き方の完璧な勝ちで幕を閉じる。『冬物語』の、物語の結末を包む幸福感といったらどう表現したら良いのだろうか。こんな不条理な恋愛を、言葉を失わせるほどの幸せな気持ちで満たされてしまうのだから、こちらはなす術が無い。
最後のシーン。「うれし涙よ」とこたえる幼女の言葉に、またあとから涙が溢れてきてしかたがない。