『グラン・トリノ』 |
'92年以降、特に今世紀に入ってから『ミリオンダラー・ベイビー』『硫黄島からの手紙』あたりのイーストウッド作品へのメディアの媚び方にはうんざりしていたし、彼の近作の傾向を”バイオレンスからヒューマニズムへの正しい転向”のように導きたがる、映画に無理解な論述には、怒りを通り越して呆れていた。
新作『グラン・トリノ』も、ただ自分の中だけにしまっておくつもりで劇場へ足を向けたが、さすがにそうはいかなかった。僕の自制心を作品が軽く凌駕していた。
まずこの作品は(基本的に彼の作品は)、真新しくて清潔なシネマコンプレックスなどで観てはならない。便所の消毒液の臭いがするような古びた映画館で、カップコーヒーだけを持ち込んで観るべきである。その想いに従い中洲大洋映画劇場を選んだ僕の判断は間違っていなかった。
この極めて繊細な美しさに満ちた映画は、教会での葬式のシーンで幕を開ける。
些か左右のバランスを崩したイーストウッドの立ち姿が映る。傍らには彼の妻の棺が横たわる。ピアスの光るへそを露出したまま気の無い祈りを捧げる孫娘の姿を見下ろし、短く刈り込んだ銀髪で苦虫を噛み潰したように唸る彼の表情は、『ハートブレイクリッジ 勝利の戦場』での鬼軍曹を想起させる。
独善的、差別的な頑固者のせいか、時代にも、家族にも取り残されたフォード社の組立工だった老人。朝鮮戦争に従軍して勲章を得た元軍人でもある。彼の自宅の傍らに掲げられた星条旗からして、ここは紛れも無いアメリカ合衆国なのだが、周囲にはアジア系やヒスパニック系の住人ばかりだ。その環境が周囲との壁を作り、溝を掘り、自宅のデッキチェアーだけに自らの唯一の居場所を巣作りしているのである。
そのデッキチェアーでの彼の表情が、この作品の中で最も穏やかで、最も細やかである。
これほどうまそうに煙草を吸い込み、燻らせるアメリカ映画がほかにあるだろうか。
この物語を導くモン族の少年タオ。
目が、『バード』でチャーリー・パーカーを演じたフォレスト・ウィテカーに似ている。
少年の祖母をはじめ、この家族の佇まいがすべて生々しい。
キャメラは殊更に影を強調することもなく、ただそこにあるものを、自分の視界のすべてのように映し出す。モン族の家族の室内は、『パーフェクト・ワールド』の農夫の家のようにひんやりとしたリアリティがある。それ以外の撮り方は存在しないとでも諭すように我々の映画的邪心を排除する。
贅肉を削ぎ落とした、息子カイルによる禁欲的なピアノを主体とした音楽。この音楽がまた、寡黙であるからこそ映画に底知れぬ重みを落とすのである。
この上なく繊細なラストシーン。道と海と空のフィックスショットに、この人の歌声が被さる。まるで彼の最高傑作のひとつである『センチメンタル・アドベンチャー』のラストのようである。
アメリカ映画において、最もインディペンデントな作家であるクリント・イーストウッド。おそらくこの作品が、彼の最後の主演作になるであろう。そのことについて、あれこれ言うまい。我々映画ファンのわがままに、彼はこれまでいちいち応じてくれたではないか。期待を遥かに超えて。
それよりも、この特殊な映画作家の、最後の主演作に立ち会える特権をいま我々は享受できることを喜ぼう。
まだ間に合う。カップコーヒーを片手に、劇場の席につこう。
cassavetes69さんも私もドイツ車ユーザーですが72年製フォード・グラントリノのシルエットは綺麗でしたね。ドイツ車ユーザーはアメ車を笑い飛ばすものですがグラントリノは笑えなかった。綺麗なシルエットだった。
この人の映画は残りの30分くらいから息苦しくなりますね。
「マジソン郡の橋」のときももそうでした。
この映画だとタオを地下に閉じ込めたあたりからでしょうか。
荒れた心が沈静してのエンドロール。
あの「Gran Torino」という曲は息子さんでしたか。
なにしろ映画は素人なもので。
中洲大洋劇場の『タワーリングインフェルノ』の画像は以前も'76年について記事になりましたね。
確かにドイツ車ユーザとしては、あの艶かしい曲線には二の句が告げなくなるものがありますね。『激走5000キロ』なんてアメリカ映画を思い出します。
しかし、撮影中のイーストウッドのスナップを観ると「AUDI」の帽子をかぶっているのですが、これは洒落でしょうね。
息子カイルのクレジットによる音楽には、おそらく父親の意見が強く反映されていたのではないでしょうか。私はカイルも出演した『センチメンタル・アドベンチャー』をすぐ観たくなりました。
老齢の監督の、自らの主演映画。78歳という年齢を考えればこれは映画史からも特殊な出来事です。この人の「恐ろしさ」については今後覚悟を決めて書いていきたいと思っております。
コメントありがとうございます。
ご挨拶頂いたベスト10ですが、かなり私の趣味とも近いようですね。私も好きで紹介していますが、ローグの『赤い影』をそこまで評価される人も少ないでしょう。『赤い影』と『マルホランド・ドライブ』と『さすらいの二人』以外は私も気分次第ではベスト10に入れるときがありそうです。
『グラン・トリノ』では、『荒野の用心棒』や『ペイルライダー』のごとく、いつイーストウッドが立ち上がってくるのかと冷や冷やしました。
実は今でさえ、ラストの教会の棺の中身を訝っているくらいです。
この作品は、ずっと亡霊を演じてきた彼の、自らへのとどめなのか、あるいは洒落なのか、いや亡霊として彷徨い続けるという表明なのか、真相は藪の中ですね。
マルホランドドライブは、リンチ嫌いだった私にとって、唯一つのリンチ愛好作品です。時に映画より映画評論が好きな活字第一の私にとって、内田樹氏や斉藤環氏がリンチをどれだけ絶賛しても捉えきらない、魅力があると思います。また、夢を見るのが楽しみで床に就く、夢愛好者の私にとっては、悪夢そのもののを映画化したと評価してます。
赤い影は、ベスト500ぐらいに急降下する可能性あり(確かに凡庸なところも多いです)ますが、二人のラブシーンは映画史上に残る、あまりにリアルなシーン(まあ、芸が無いといえばそれまでですが)で挙げてみました。
さすらいの二人はマリア・シュナイダーが可愛いという理由が80%ぐらいでしょうか。気分が沈んだ時よくこれを観るのです。
映画評論ではスラヴォイ・ジジェクは最高かと思います。ジジェクがアイズアイドシャットに言及して読者がラカンを少しでも分かったようにさせる力技は一読に値します。
あ、そうそう今は亡きガタリがカサベテスを最高の映画監督だと絶賛してたのは嬉しかったですね。
リンチは私も嫌いな方ですが、『マルホランドドライブ』はどう観てもリンチなんだけども”らしくない”貴族的な空気が支配していて好きな作品です。
私は、もともと熱心に映画批評を読むほうではありませんが、最近はほとんど読んでいません。単純につまらなくなってきたからですね。内田樹にせよジジェクにせよ本読みとして触れた方です。
ただ信頼できる批評家や映画監督が自分と同じ視点で、その作品を称賛していたりすると、涙が出るほど嬉しい時はありますね。
またどうでもいいことなのですが、ジョン・カサヴェテスは私にとって最愛の監督ではありますが、史上最高とはいいきれません。「最高」にはもっと相応しい作家がいるような気がするんですね。もっと重苦しい顔をした人たちが。またおそらく、「最高」となった時点で私の偏愛の対象ではなくなってしまうような、どこかにそんな偏屈な感情があるのでしょうね。ホント天邪鬼で申し訳ありません。
『ミスティック・リバー』あたりからのメディアの扱い方には、自分もなんだかなぁと思っていました。
『センチメンタル・アドベンチャー』や『ペイルライダー』にリアルタイムで出会えなかった世代として、この映画にリアルタイムで出会えたことが何よりも嬉しかったです。
メディアの取り上げ方は置いておいて、最近のイーストウッドも不気味で怖ろしいですね。
『ミスティック・リバー』は、おすぎがCMで絶賛していたので度肝を抜かれました。こりゃだめかな、と思いましたが、素晴らしかったんですね。これが。僕は傑作だと思っています。
淀川長治氏でさえ、イーストウッドなど大して評価をしていなかったと思います。アルトマンやスコセッシやウディ・アレンの方をずっと高くみていたでしょう。
だからこそ、あっさり公開を終えた『ペイルライダー』を見届けたものとして異常に強い愛情があるのだと思います。
さて、彼の作品は20年後、どんな位置づけなのでしょうね。