2008年 10月 08日
傷を晒し続ける男~アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ~ |
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの映画『21グラム』を観たときに、僕の気持ちの深いところから説明のつかない異物を飲み込んだような感覚がじわじわと染み出してきた。
その後、『バベル』という作品に触れたとき、正確に言えば、その作品の佳境で、雇い主の子供を捜して砂漠の中を絶望的に走るメキシコ人家政婦の姿を観たとき、その感情の正体が言葉として出てきた。
それは、「許せない」という言葉であった。
彼、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの狙いは外れていないのだと思う。
ショーン・ペンやベニチオ・デル・トロ、ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェットなど孤独感のある人気俳優を起用し、映像的にも全編を通して粒子を意識的に粗くするあざとさをもって、スタイリッシュさを保つことを狙い、そしてある程度成功している。
扇情的なハリウッドのヒューマンドラマに見受けられる「悲しみ」「哀れみ」のステレオタイプの演出とは線を引き、ただひたすら「傷」を晒すことで、この監督は前者を凌駕する衝撃を観客に与えようとしている。
それは映画製作として、ひとつの見方としては正しい選択かもしれないが、映画作家としての野心が果たして満たされているのだろうか。
彼自身も子供を亡くしたことで、その喪失感が『アモーレス・ペロス』を撮らせることになったようだが、彼はその後の作品でも、自らの「傷」を直截的に晒し続けている。気の毒ではあるが、それと作品の質とは分けて評価しなければなるまい。
例えば、近作『バベル』におけるモロッコの砂漠のシーンである。
ここでの風景を捉えるキャメラが、画一的なフレームに収まってはいないだろうか。その場所を説明するだけの力を欠いた画面。僕はこのときのショットに少なからず失望した。同じ砂漠を捉えた映像で、成功作とは言い難い『シェルタリング・スカイ』におけるベルナルド・ベルトルッチの壮大な映画的野心はキャメラのフレームなど、破壊するほど強烈だった。
しかし残念ながらそこに、イニャリトゥの野心はない。
僕は、このフィルムのストーリー展開に、作品としてのある程度の質の高さは認めながらも、是枝裕和の『誰も知らない』に抱いた敵視に似た感情を思い出した。
イニャリトゥの「傷」には、直截的な痛みに訴えかけるようであるが、映画としての訴求力に欠けている。アキ・カウリスマキの『過去のない男』ほどの慎ましさもなければ、クリント・イーストウッドの信じがたい傑作『ミスティック・リバー』ほどの大胆さもない。
菊池凛子がにわかに股を開いて陰毛を晒しても、ケイト・ブランシェットが、金たらいに放尿の音を響かせても、そこには映画的な驚きはなく、狙いの透けたあざとさを感じるだけなのだ。
(しかし、刑事を演じる二階堂智の存在感はそのなかで、光っていたと付け加えておく)
おそらく、この後も新作が発表されるたびにイニャリトゥの作品には触れるだろう。
生真面目な彼は、120分の作品を飽きさせることはないだろう。
しかし、彼の作品が我々の想像力のフレームを破壊することはきっとないだろうという儚い確信もある。彼がひたすら「傷」を晒し続けている限り、それが予定調和の画面に収まっている限り、そしてそれが媚びたスタイリッシュな映像である限り、僕は「許せない」という言葉を繰り返す。
その後、『バベル』という作品に触れたとき、正確に言えば、その作品の佳境で、雇い主の子供を捜して砂漠の中を絶望的に走るメキシコ人家政婦の姿を観たとき、その感情の正体が言葉として出てきた。
それは、「許せない」という言葉であった。
彼、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの狙いは外れていないのだと思う。
ショーン・ペンやベニチオ・デル・トロ、ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェットなど孤独感のある人気俳優を起用し、映像的にも全編を通して粒子を意識的に粗くするあざとさをもって、スタイリッシュさを保つことを狙い、そしてある程度成功している。
扇情的なハリウッドのヒューマンドラマに見受けられる「悲しみ」「哀れみ」のステレオタイプの演出とは線を引き、ただひたすら「傷」を晒すことで、この監督は前者を凌駕する衝撃を観客に与えようとしている。
それは映画製作として、ひとつの見方としては正しい選択かもしれないが、映画作家としての野心が果たして満たされているのだろうか。
彼自身も子供を亡くしたことで、その喪失感が『アモーレス・ペロス』を撮らせることになったようだが、彼はその後の作品でも、自らの「傷」を直截的に晒し続けている。気の毒ではあるが、それと作品の質とは分けて評価しなければなるまい。
例えば、近作『バベル』におけるモロッコの砂漠のシーンである。
ここでの風景を捉えるキャメラが、画一的なフレームに収まってはいないだろうか。その場所を説明するだけの力を欠いた画面。僕はこのときのショットに少なからず失望した。同じ砂漠を捉えた映像で、成功作とは言い難い『シェルタリング・スカイ』におけるベルナルド・ベルトルッチの壮大な映画的野心はキャメラのフレームなど、破壊するほど強烈だった。
しかし残念ながらそこに、イニャリトゥの野心はない。
僕は、このフィルムのストーリー展開に、作品としてのある程度の質の高さは認めながらも、是枝裕和の『誰も知らない』に抱いた敵視に似た感情を思い出した。
イニャリトゥの「傷」には、直截的な痛みに訴えかけるようであるが、映画としての訴求力に欠けている。アキ・カウリスマキの『過去のない男』ほどの慎ましさもなければ、クリント・イーストウッドの信じがたい傑作『ミスティック・リバー』ほどの大胆さもない。
菊池凛子がにわかに股を開いて陰毛を晒しても、ケイト・ブランシェットが、金たらいに放尿の音を響かせても、そこには映画的な驚きはなく、狙いの透けたあざとさを感じるだけなのだ。
(しかし、刑事を演じる二階堂智の存在感はそのなかで、光っていたと付け加えておく)
おそらく、この後も新作が発表されるたびにイニャリトゥの作品には触れるだろう。
生真面目な彼は、120分の作品を飽きさせることはないだろう。
しかし、彼の作品が我々の想像力のフレームを破壊することはきっとないだろうという儚い確信もある。彼がひたすら「傷」を晒し続けている限り、それが予定調和の画面に収まっている限り、そしてそれが媚びたスタイリッシュな映像である限り、僕は「許せない」という言葉を繰り返す。
by cassavetes69
| 2008-10-08 23:56
| 映画
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