『刑事グラハム~凍りついた記憶~』 |
世の中にいやと言うほど溢れている言い回し。今、この瞬間にも口にしている人間はあまたいるだろう。どちらかというと器の小さい人間が、そうと気づかず使ってしまうフレーズという印象もある。
そのことは自覚しながら、それでも敢えて、僕もこの言葉を口にしたい。
ただし、いまだに評価の定まらない人だけに、何の自慢にもならないのだけれど。
マイケル・マンという監督は、今のアメリカ映画において僕が最も新作を期待する人物である。僕が「目をつけていた」と主張したいのはこの人のことだ。トム・クルーズを主役に配した、あの素晴らしい『コラテラル』がなぜ、大した評判にならなかったのか、いまだに理解できない。
『コラテラル』は、間違いなく21世紀に製作されたアメリカ映画の中では最も”映画的”な作品のエリアにマッピングされるはずだ。続いて発表された『マイアミ・バイス』も、もともとは彼がプロデューサーを務めたTVシリーズのだが、なかなか見応えある”映画的”な空間を作り出していた。
彼のフィルモグラフィーを追ってもテレビの世界で名を馳せた人であることは判りきっているのだが、今、アメリカで最も”映画的”な作品を届けてくれる人なのである。
1990年、新鋭ジョナサン・デミによるオスカー受賞作『羊たちの沈黙』という作品が公開され、その後ベテランであるリドリー・スコット監督の『ハンニバル』、ブレット・ラトナーの『レッド・ドラゴン』を含めてレクター博士3部作と呼ばれていることは周知の通りである。
しかし、レクター博士の物語は1986年のマイケル・マンによってすでに映画化されていたのである。後に『レッド・ドラゴン~レクター博士の沈黙~』という原作名で改題発表されるその作品は、『羊たちの沈黙』でトマス・ハリス作品が注目され始めた頃、その勢いにあやかって『刑事グラハム~凍りついた記憶~』という邦題で日本でも公開された。後のブレット・ラトナー作品と同じ原作である。
僕は公開当時、地方新聞における、とある評論家の好意的な映画評を受けて劇場に出向いた。
誰も観客のいない劇場で、僕はひとり静かな感動に包まれた。
アメリカ産の犯罪映画として、僕が敬愛するドン・シーゲル監督とどこか共通するような、犯罪映画に不可欠な空気の「張り」と、体に染み入る「淋しさ」を感じたのである。
その後の『ヒート』や『インサイダー』などの作品を例にとるまでもなく、彼の作品は、ある意味で「時代錯誤のハードボイルド」であり、「過剰なやせがまん映像」である。
しかし、その大人になりきれない幼稚な振る舞いこそが、「映画」に生命を吹き込んでいるのである。だから僕は、マイケル・マンの作品を信用できるのだ。
少しも風格のないブライアン・コックスによるハンニバル・レクターについて。
こんな話題なら、僕は酒を飲みながら朝まで語り明かしたい。