野口久光 シネマ・グラフィックス |
以前もこのブログで取り上げたことがあるが、映画にジャズにとマルチな評論家であり、画家である野口久光さんの展覧会を京都文化博物館でやっているのだ。
いやあ、面白かった。みっちり3時間滞在したが、くすぶっていた映画熱が沸々と湧き出てくるような興奮を覚えた。野口氏自身が編集した東和配給の26作品の名場面集など観ていると、顔が緩む。
私は最近、ヌーベルバーグ以前のフランス映画を観るのが億劫になっていたのだが、この展覧会を観て、想いは180度変わった。敬愛するジャン・ルノワール、ルネ・クレールはもちろん、マルセル・カルネやジュリアン・ディヴィヴィエの作品さえも小品まで追いかけたくなったのだ。特にディヴィヴィエは巨匠として広く認知されながらも、あの淀川長治氏に「甘い。大衆への媚びがある」と言わせしめた人だが、いまは逆にそういう作品こそおさらいしたくなってきている。
きわめつけはなんといってもトリュフォーの『大人は判ってくれない』のポスターだ。この作品が野口氏とトリュフォーの親交にもつながっていくサイドストーリーもふんだんに紹介され、トリュフォー直筆の手紙も展示されている。野口氏によって描かれたこのポスターの少年は、ドワネルそのものであり、つまりトリュフォーその人の自画像なのだ。
もちろん、この作品だけではない。1933年にプロとして描き出した初期の筆づかいも美しいし洒脱である。戦後も『禁じられた遊び』や『モンパルナスの灯』などは、並べて展示された本国フランスのポスターよりも映画のの本質を突いた哀しさの滲む絵柄とレタリングとなっている。(一方でシャブロルの初期作品とは相性が悪いように思われた)
'60年代以降活動の中心となったジャズ評論家としての仕事も紹介されている。当時のジャズ・ジャイアンツたちのスナップを撮る写真家としての仕事も残していて、私が特に感心したのは、日本のどこかの寺社の階段に腰掛けて遠くを眺める若きクインシー・ジョーンズの写真だった。常に構図を意識して描いてきたであろう氏の空間を切り取る技術にも舌を巻いた。
横尾忠則氏の言葉も彼の才能を裏付ける。「こんなに描けるもんじゃない。ぼくなんか最初からギブアップだ」「どのポスターを見ても迷いの痕跡が見当たらない」と。
戦前戦後の日本に、ヨーロッパのモダンでロマンティックな香りを届けてくれたお洒落な才人、野口久光。
先生、憧れのリリアン・ギッシュに似顔絵を手渡しできて良かったですね。