『動くな、死ね、甦れ!』 |
こんなチャンスは滅多なことでは訪れない。あの衝撃をどうしても劇場で再確認したくて福岡上映の初日の、初回に駆けつけた。'92年に開催されたレンフィルム(旧ソ連最古の撮影所)映画祭で日本では初めて紹介されたが、その絶賛にすぐ共感を示すことができず、もどかしさを感じた当時を思い出す。
物語の強さに動揺し、作家の不意打ちに混乱させられ、例えがたい懐かしさを感じさせる作品である。子供たちの学校での悪戯には、誰もがトリュフォーの『大人は判ってくれない』の教室にも想いを繋げることだろうが、この『動くな、死ね、甦れ!』は少し匂いが違う。ソビエト連邦の東のはずれにある炭鉱町の生活は、より生々しく、生と死の境目だけに漂う匂いを周囲に撒き散らしている。
主人公の少年ワレルカと幼馴染の少女ガリーヤが広場でお茶を売るシーンのキャメラの動き。人々の表情。これは本当に第二次大戦直後を回顧して描かれたフィクションなのだろうかという思いが押し寄せる。
ワレルカとガリーヤの罵り合い、近所の男のがなり声と歌、学校の便所にイースト菌を入れて発酵させるという臭すぎる悪戯、強奪されたスケートの痛快な奪還、そして機関車の転覆。それらはあくまで彼らにとっての日常であり、屈託のない笑いも至るところに散らばっている。しかしそこは当たり前のように死が周囲を覆い尽くした日常なのだ。
長編の二作目で、よくもここまで人を食ったような作品を撮れるものだ。潔いとか言うレベルではなく、ここまできたら怖ろしさでしかない。普通の映画作家であれば、劇中最も心を砕いて撮ろうとするであろう「瞬間」を、あっさりと無視するのだ。迷いのなかで避けているのではなく、意識的に取り除いているのだ。ワレルカは、キャメラの外でいつの間にか「何か」を実行して、困難を招いたり、逆に脱出しているのだが、その「瞬間」を我々は目撃することが許されない。
少女ガリーヤは天使のように自由に、そこがどこであろうとワレルカの前に現われる。どのようにしてその場に行き着いたのか、なぜ知ったのか、その過程を説明することなどカネフスキーは必要性を感じていないのだ。
その姿勢は悲痛なラストシーンでも同じである。発狂したガリーヤの母が、全裸で箒にまたがっているシーンにカネフスキーの声がかぶさる。「カメラはあの女を追え、他の者は構うな!」。この言葉こそが、カネフスキーの映画への姿勢なのだろう。
傑作は何度観ようとも傑作だ。『動くな、死ね、甦れ!』は誰が観ても圧倒的な作品だ。
この映画で撮られた小麦の配給を求める群集のように、映画ファンならば生活を賭けても劇場に駆けつけるべきだ。
ラブ・ストリームスを観ずして映画を語るな、エルのラストに戦慄(或いは、笑い)を感ずることなく映画を語るな、マルホランド・ドライブを解釈せずに映画を語るな、等々周囲に叫びまくっていた私に、おまえは映画を語る資格がない、と迫られるような文字通り異様な映画です。
観終わった午前2時ごろ、迫り来る仕事への不安もありましたが、まさに打ちのめされた、という感覚でした。
蓮見重彦氏が、人類はこの映画を観たかどうかで2分されると言ってましたが(ニュアンスの発言)、いつもの大仰な評論とは笑えない的確な表現と蓮見重彦氏のこの発言を支持します。
しかし、ストーリーも描写も特別グロテスクでもないのに、この感動は一体何か。
『動くな、死ね、甦れ!』は仰せのように「打ちのめされる」という言葉が一番適当でしょうね。大男から思い切り棍棒で頭を殴られる感じでしょうか。『Z』のイヴ・モンタンの殴られ方より強烈なイメージです。
個人的には観るのは何年かに一回でいいです。とても身が持ちません。このフィルムに漂う、「切迫感」とも違う、死との密着間のようなものに、体力と胆力を要するのです。
こういう映画を観ると、やはり才能の無い人間が映画を撮ることに対して許しがたい気持ちが湧いてくるのです。