『バニシング・ポイント』 |
仲間とそんな賭けをした男。
バリー・ニューマン扮するコワルスキーというその男が、7000ccのダッジ・チャレンジャーR/Tでただひたすら失踪する。それだけの作品だ。
子供の頃にテレビで何度も観た作品だが、僕にとって、この'71年の作品こそ「アメリカ」だった。
ラジオでDJをつとめる「スーパー・ソウル」呼ばれる盲目の黒人。
彼はラジオの電波を通してコワルスキーにエールを送る。
ガラガラヘビを捕獲する謎の老人。
ピースマークを掲げ、砂漠の中のコミューンで唄うカルト臭の漂う宗教集団。
全裸でバイクにまたがり、コワルスキーに体を捧げようとする金髪の女。
スーパーソウルをリンチにする白人集団。
間の抜けた二人組みのゲイの強盗。
僕は、アメリカとはそういうところなのだと思い込んだ。
オープニングの撮影はなかなかいい。
しかし、この手の作品の演出で鍵を握る、時間の語り方がでたらめで、矛盾が多い作品だ。
ただ、「その粗雑さがアメリカン・ニューシネマだ」という言い訳も聞こえてきそうだ。
ヒーロー像を浮かび上がらせる挿話は少しウェット過ぎるし、ラストシーンもこの時代の要請に迎合したように思えてしまう。バニシング・ポイント=”消え去る場所”を見出した男は、最初からこの結末を予見していたわけではあるまい。
もちろん監督であるリチャード・C・サラフィアンという名前も忘れたってかまわない。
けれども、この映画のシーンはずっと僕の体に染み付いて離れないのだ。