『コッポラの胡蝶の夢』 |
2007年に製作された『コッポラの胡蝶の夢』である。
フランシス・フォード・コッポラによる、アメリカ・ドイツ・イタリア・フランス・ルーマニアの合作映画である。
『レインメーカー』以来となる10年ぶりの本作品で、彼はなんとゴダールへの接近を試みたようである。つい先日70歳を迎えた彼の今後の野心は、あの「GOD」へ向かっているのか。
その無謀で幼稚な意思表明を、拍手をもって支持したくなるほど、この映画には力強さが宿っているのである。『地獄の黙示録』以来、野心作『ワン・フロム・ザ・ハート』で大失敗したコッポラは自身の想いに枷をかけていたように思う。それからはじめて彼が撮りたい作品を撮りあげることができたのではないだろうか。
『コッポラの胡蝶の夢』は誰の作品にも似ることがない。
敢えて探すならば、かつて彼がプロデュースしヴィム・ヴェンダースに監督させた『ハメット』であろうか。べネックスの『青い夢の女』か。いや、やはり似てなどいない。
最新のアメリカ映画の技術を駆使しながら、オーソドックスな演出手法を緻密に積み重ねている。
現実と夢と想念、現在と過去との境目は曖昧で、そもそも何が現実かということに意味があるのかとこのフィルムは問いかける。絶対的な現実など存在しないのだと。
ひとつひとつのショットが執拗なほど入念だ。
フィックス・ショットによる建物が実に美しい。その絵画のような完璧な景色を横切る人、車。
これこそが映画の真の喜びだ。
しかしながら審美主義的な画面にのみ作者自身が陶酔することはなく、敢えてハリウッドのアドヴェンチャー映画的な演出を積極的に採用している。やはりコッポラはアメリカ映画の作家なのである。真剣で救いがたい映画馬鹿なのだ。
ティム・ロスの演技は僕の好みではないのだが、この役に彼以上の適役はいまい。
落雷により若返った言語学者が、若さだけでなく、次第に陰鬱な色気をまとっていく姿が実に映画的である。
「鏡」を映画のあらゆる場面で印象的に配置し、物語のひとつのキーファクターとして扱っている。
老いさらばえ、這いつくばるティム・ロスの姿を描いた逆立ちのショットでは、ベルトルッチの『1900年』のラスト・シーンにおけるロバート・デ・ニーロとジェラール・ドゥパリュデューを想起させる。ここにもパゾリーニに「アクロバットをやり過ぎる」と評されたベルトルッチの、コッポラとの共通性を感じてしまうのだ。
アレクサンドラ・マリア・ララもコッポラの期待に充分応えていた。
今後コッポラは彼の感性の赴くままに映画を撮り続けていけるだろうか。
かつてのアメリカン・ニューシネマの担い手の彼にはこの21世紀に於いても、誰にも似ていない「新しいアメリカ映画」を築き上げてもらいたい。